乗り越えられないほどの悩みにぶち当たったので、少しでも知ってほしくて形にしました。
前回の記事の悩みは、今回のテーマに合わせると3種類に分類できます。
- 最大の挫折
- ポーズや構図、演出やネタがかぶるのが怖い
- ちゃんと考えて描けていないと、間違った方法は時間を無駄にする
- 資料・参考の定義がない
- 二次創作恐怖症
- 版権と法
- 流行に便乗すること
- 完璧主義からの脱却
- 評価されたいが、それが叶えられない不安
- 手を抜くことの罪悪感
- 精神的に模写に依存し、その時間を失うのが怖い
- キャラが好きでも作品全体を知らずに描いていいのか
- 描き始める年齢が遅かった
最大の壁:汚点のない絵を描くべきだと思いつめる
悩みのタネは前回の記事から引きずっているものもありました。
描くのが遅い(1枚描くのに2週間かかる)、どんな絵にするか決められない、二次創作(版権物)の是非など。
自信のなさが劣等感となって落ち込む理由になっていました。
今回の挫折で決定的だったのは、「絵を描く」という行為の根幹が揺らいだこと。
具体的には、アイデアや欲求の源、知識や経験の由来にまで「正しさ」を求めようとしていました。
「汚点のない絵を描かなきゃいけない。そうでなければ公開する資格がない」。 完璧主義だから、非難されないためには、二次創作からも足を洗うことになる。 ……それをどうやって乗り越えているのか、神絵師の頭を覗いてみたい。
— chromitz (@chromitz) 2019年6月7日
「資料を見て描け」VS「パクリ問題」
この項目で一番言いたいこと。「どうして絵描きは絵を描けるのか?」
以下は、自分の中で犯罪だと思い込むにまで至ったリストです。
- 抽象的でも絵の見た目(頭の位置や体の向き、仕草)が似ている → パクリ
- 元絵・写真の体の曲線を真似する → パクリ
- 引き出しが少ないからインプット・暗記をする → 許可された資料でなければパクリ
- 印象に残った絵・写真の人物(ポーズとカメラアングル)を真似て描く → パクリ
これまで普通だと思っていた行為がすべて否定されたように感じました。道を断たれたのです。
もうどこからがパクリなのか、パクリじゃないのかまったくわからなくなりました。
自分の知らない「正しい」描き方が存在するのでしょうか?
百歩譲って、何も見ずに描くとしましょう。
知らないものは描けるわけがないし、描けるということは記憶にあるという訳で。
ということは著作権のある出版物や創作物を見た経験はすべてパクリになると言えます。
……そんな暴論が通ったら、既存の漫画も、アニメも、ゲームも、グラビア撮影も、自撮りも存在できなくなります。創作の文化は崩壊する。
それでは現状を説明できません。
だから悔しいんです。
悩んでいる今この瞬間も、投稿される絵を眺めることしかできない。
だから「汚点のない絵」を描こうとしました。
このトゥート(TwitterではなくMastodon)に反応したユーザが「完璧なものなんてあるわけないのに」と書いていましたが、それは私も理解しています。
じゃあ、どこまで影響を受けていいのでしょうか?
「資料」とパクリの境界はどこでしょうか?
「資料」「参考」の定義は無い
完璧主義をこじらせた身で一番頭を悩ませたのは、「資料」や「参考」の定義がないという点でした。
「資料を見て描け」とは言われるものの、定義も具体例もない。
「完全なオリジナルはありえない」、「影響は必ず受ける」という主張も理解しています(※1)。
だから私は「加工模写(ポーズを拝借して別のキャラ(顔・髪・服装)と背景を割り当てるもの)」が手法の一つだと解釈していました。
人物が写った写真を「参考」にして描いていましたから。
「何も見ないで描く!!」が実力だと思っている人。
アニメ私塾_ 必ず何かを見ながら描こう!!
とんでもない勘違いです。
写真、ネット、上手い人の絵など考えうるアプローチを試した先に「実力」があります。
描けない人ほど「見ないで描く」ようです。
見なくても上手い人は映像記憶力が高いか過去にたくさん「見ながら」描いてます。
「見ないで描く」状況って受験と就活の時だけです。 それ以外のいかなるときも絵描きは何を見てもいいはずです。
誰かの影響が色濃く出過ぎて・・・っとお悩みの方へ。
巨匠になってから悩んでください。
そんなの無数のファンがいる大作家になってからの話です。
※1
「資料を見て描け」と言われるが、そう言う人は「投稿する作品に対してはどうなのか」を言及していないように思える。
練習には模写をするけど、公開する作品を「見て描く」ことを明言する人はいない。
私のように、描きながら育たなかった「絵描きのニセモノ」にはわからない常識があるんだろうか。
定義のない現状
この話題は不思議な形をしています。
疑惑は確かに存在しているのに、存在していないかのように誰も口にしない。
私と同じように悩む人以外は。
(2017年から続くこの悩みは、ずっとググっていたのにまだ知らないページがヒットするのが面白い。次の引用は7月15日に見つけたページのもの。)
1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2014/02/17(月) 22:36:20.03 ID:lcvJkZlzI
丸ごとトレス→盗作
模写→盗作
ポーズをまねる→盗作
キャラデザをまねる→盗作
絵柄をまねる→セーフ
誰かから模写して得た知識を頭の中から引き出して描く→これもセーフ(略)
17: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2014/02/17(月) 22:54:26.37 ID:lcvJkZlzI
絵ってどこからどこまでが盗作の範囲なのかわからなくなってくるよね _ 何も意味がない速報
ここまでがダメでここまではおkっていうのは現時点では明確になってるけど、
なんていうか、上手く説明しづらいけど、根幹は同じなんじゃないかなあって思う
まるごとポーズパクるのはダメだけど模写して自分の頭の中で組み立てられるようになってアウトプットしたらセーフって
なんか悪くないのに悪いことしてるような感覚になる、模写してると
トレス(トレースの蔑称)は、論外だ。
それを公開するのは明確に盗作だし、それ以前に「なぞったものを自分のものと言う」のは絵描きのすることではないと思っている。
元の絵を「見たまま複製する」という意味で模写なら、これも盗作。
なにより、見た人が喜ぶ理由がない。
ポーズに著作権はありませんが、人は構図(ポーズとカメラアングルと見切れ方)が同じものを「ポーズ」と呼ぶことがあります。
「消費者が見るキャンバスのポーズ」ということです。
私の定義する「加工模写」はこれに当たり、ジョジョやスラムダンクの表紙・扉絵はこれに似ています。
「模写をして得た知識を頭の中から引き出して描く」のは、歪みきった今の私はアウトだと思っています。同意できない。
パクリ問題を裁判で争うとすれば、「似ているかどうか」が焦点になります。
目で見て描こうが、脳内のイメージ(知識・経験)を見て描こうが、やっていることは同じですから。
過程は大事だが、大事ではない
「資料を見る」とか「見ない」とか以前に、どんなきっかけ・アイデアなら正しいのか、完全に自信を失いました。
何をするにも罪悪感でズタズタ。
印象に残っているものしか憶えていないのに、それを形にしようとすればパクリになる(と思いつめた)。
絵を描く過程は採点対象ではありませんが、パクリかどうかはこの段階で決まります。
でも仕方がない。誰も具体例を示さないから。
ちゃんと引用したくて、出典を探してる画像。 ・https://t.co/lefPXfy9px ・https://t.co/GmaskI7nY1 ・https://t.co/OZTK7W4bzG pic.twitter.com/0mD33PzZo0
— chromitz (@chromitz) 2019年6月8日
「どうして絵描きは絵を描けるのか?」
「この話題には着地点がない」
スレッドを建てたユーザはそう言った。その通りだ。
私がどれだけ頭を悩ませて、疲れ果てるまで考え抜いても……答えは出ない。
だから、乱暴にでも結論づけることにしました。
「絵描きは参考にするし、参考にされることが常識という世界で生きている。だから悩まないし、誰も語らない」
減点法で、絶対にダメなものだけを犯さないようにしよう。
トレースと、「丸写し(複製)のような模写」の二つ。
そうでなければ、現状を説明できない。
二次創作恐怖症
アイデアやポーズ・構図の影響で悩む他に、二次創作を描くことにも深く悩みました。
いえ、法を犯しているのですから悩む余地はありません。
今回の挫折の中身は、進む道を見失い、過去の作品を否定する結果になりました。
二次創作「恐怖症」と呼ぶのは大げさかもしれません。
自ら創る・公開するのが怖いだけで、見る・消費するのはこれまでと変わりませんから。
二次創作を肯定できる理由を探しましたが、それはことどこく論破されました。(公式がガイドラインを提示していて、それに従うならこの限りではありません)
- コミケは非親告罪にはあたらない
→親告罪には違いない - 二次創作宣伝になる
→二次創作に流れるカネは一次創作(公式)には行かない
(コンテンツを消費する時間さえも一次創作から奪っている) - 二次創作は絵描き・イラストレーターを育てる
→プロになるのは極々わずか
現状は「グレー」ですらなく、「真っ黒だけど裁判のデメリットが大きすぎて『グレーのように見える』」が適切な表現だと言えます。
世の中の二次創作の作者が何を考えて行動に移しているのか訊いてみたい。
「みんなやってるから」とか「実質的にグレーじゃん」という考えでは肯定できないのが、クソマジメくんの俺。
起源を横取りしない・ディスらない
だから、現状で二次創作をするということは、「作品の削除や場合によっては賠償を請求される覚悟がある」ということになります。
(「責任が取れる人が二次創作を自己責任で行っている」とは思えない。)
それでも「黙認された現状」の中で生きるのなら、次の二つだけは犯さない方がいい。
- コンテンツ(IP:知的財産)の起源を横取りしない
- 一次創作を貶(おとし)めるような使い方・主張をしない
二次創作をするなら、ガイドラインに従う。
ガイドラインがない、または反する場合は「現状を悪用している」という意識を忘れず、自己責任で。
今までは版権物の二次創作を描いてきたけれど、「自分が一次創作した方が縛られずに気楽じゃないか」と思っている。
出来ること:絵の上達と完璧主義を区別する
絵の悩みは、今の時代インターネットで閲覧することができるようになりました。
関心のある有志のおかげで、技術的・精神的なアドバイスは増えつつあります。
それでも解決しなかったので、挫折からの2週間は「絵の悩み」を切り離して原点である「完璧主義」にフォーカスしていました。
そこで気づけたのは、「絵の練習と完璧主義の悩みを区別する」ということです。
(歪んでいない人にとっては、これが当然なのかもしれないが。)
完璧主義的な悩みはあっても、絵を描く行為まですべてを否定する必要はなかったのです。
他の絵描きと同じように、アドバイスを読んでいい。
他の絵描きと同じように、練習をしていい。
他の絵描きと同じように、描きたいものを形にしていい。
上達するために描かなければならないのなら、描くことはそのままで完璧主義に対処すればいい。
完璧主義への反論
下手だと思われたくない・「そんな人なんだ」と見捨てられたくない
A. 安全地帯はない。
今回一番のパワーワード(自画自賛。
自分が周りより一歩も二歩も引いたとして、それを良くないと思う人もいれば、(意外なことに)それを素晴らしいと思う人もいる。
ファッションや振る舞いなど、派手すぎず、地味すぎない「安全地帯」というものは、やはり「自分という70億分の1の価値観」に過ぎないということ。
すべての人に受け入れられるのは不可能。だったら他の人を真似て、他者への体裁よりも、自身の欲求を形にしていい。
どんな絵(画)にするか思いつかない
A. 自身が否定しているだけで、まったくのゼロではない。
以前の記事で、「描きたいものを言語情報で用意することはできるけれど、それを『どのように描くか』が難しい」という話をしました。
「本当に思いつかないのか?」と問うてみる。……そんなことはない。
「ありがち」だとか「見たことがある」のを理由にして否定しているだけだった。
頭の中のイメージを否定せず、形にすればいい。
ありがちなものは、みんながやってるから「ありがち」なのであり、だからこそ「見たことある」と記憶に残る。
自分も「ありがち」の内の一つになるだけだ。
(精神的に)絵が描けない・下手な自分の絵を見たくない
A. 見劣りするのが怖いだけ。
流行をわかっているというか、目が肥えているというか、「評価されるにはこれくらいの上手さが要るな」と基準を持ってしまっています。
評価されるためにはそのレベルであってほしいから、自分の描いたものを比べてしまう。
(直接優劣を比べるというよりかは、ヒエラルキーのように「ピラミッド型の上位層に入っているかどうか」という見方。)
「安全地帯は無い」と書いたように、たとえ全力で・最高で・完璧なものを仕上げても、他人はそうと思わないかもしれない。
下手だと思っているのは自分だけで、他人は上手いと思うかもしれない。
憧れは追求しても、今の自分を否定する必要はない。
純粋な絵の上達
完璧主義は置いておいて、絵の練習と上達について考えてみます。
絵はすぐには上手くならない
「絵はすぐには上手くならない」という書籍があるが、そちらとは無関係の見出しです。
今の自分を肯定するための反論を述べてきました。
もう一つ、これからの自分が焦らずに済む考え方を示します。
描いた量が少ないという悩みは常々感じてきました。
描き始めるのが遅かった事実は枚数だけでなく、心構えというか、考え方も形成されていないこ気付かされたからです。
他人と比較しなくても、たくさん描かなきゃあいけないのに、「描くのが遅い」ことが成長の遅さに直結していました。
大人になって絵描きさんに憧れ、絵を描き始めた人にアドバイスを求められた時に「下手でも描き続けてください」としかいえない理由 pic.twitter.com/DnEWmTiuTV
— ふーみん (@fooooooomin) 2016年3月21日
だけれど、「いっぱい描く」というのを具体的に数字にしてみると「義務感」がなくなりました。
具体的に数字で考えてみるというのは、初心者向けの記事を読んでいて得られたものです。
絵を継続して練習し始めて5年半、初めて数字で比較してみました。
イラスト初心者に贈りたい「悪い思い込み」集 _ コンコンポート
(18歳から年に300枚描いたら、20歳では600枚では……?)
例えば、4歳から年に100枚描いた人は……14歳で1,000枚、24歳で2,000枚、34歳で3,000枚になります。
自分の場合はどうか。これまで描いた枚数を数えてみた(Fig1)。
- 2013年(12月〜)…2P
- 2014年…190P
- 2015年…250P
- 2016年…130P
- 2017年…89P(描き方・影響を受けることに悩み始めた)
- 2018年…87P
- 2019年(〜6月)…35P
合計482枚(783ページ相当)
(ほとんどが模写。投稿したデジ絵と練習用のトレースは除く)
(ケチって両面だったり、1枚に1〜6モチーフを描いているから「枚数=ページ数=絵の数」ではない)
ページ数だけで比べてみると、神絵師の10歳程度と近い数字になります(Fig2)。
彼らが十代半ばから二十代で軌道に乗ることを考えると、(模写ばかりの)私の経験値は半分にも届きません。
そう思うと、「勝ちたい・並びたい」という欲求から方針転換ができるようになりました。
失敗を集めるという発想
今回一番大きく歩を進めることができるようになったのが、「失敗を集める」という考え方です。
この記事はLifehackerで見つけました。
彼女は、自分が興味のあるものには、手が届きそうもないと思えるものもすべて、あらゆるものに応募して、2018年中に100回断られることを目標にしました。そして、断られる度に、それは自分が目標に向かっている証拠だと考えるのです。
「100回失敗する」ことを目標にしたら、逆に成功するようになった話 _ ライフハッカー[日本版]
私のように歪んだ完璧主義者は、親に怒られないため、恥をかかないために失敗を避けて生きてきました。
体裁に傷がつかないように、減点法(残ったものが90点だろうが10点だろうが、とにかく減ることがNG)で考えてきました。
この発想は、それとは逆に「失敗することに価値を持たせる」というものです。
「『失敗した』は『成功に近づいた』と言い換えることができる」という考え方も知っていましたが、「自ら失敗する(=悪)」という行為が難しいことには変わりがありませんでした。
これまでは全然筆が進まなかったラクガキも、失敗を集めるものと考えれば悪い気がしません。
「下書きはしたけど飽きた模写」や「手クセで描くと未熟さが露呈したラクガキ」、「挑戦したけどマンガの導入はやる気が出なかった模写」など、こうして書いてる時点までの1ヶ月で9/100までカウントしています。
さすがに他人が絡んで責任が発生することを「失敗していけ!」とは言えませんが、画面越しに自分一人の行動すら満足にできなかった私にはちょうどいいアドバイスでした。
さいごに
数年に渡って解決策を探してきてわかったことは、「私が抱える悩みは完璧主義でなければ理解できない」ということです。
多くの人が臆せずに作品を公開したり二次創作をしたり、他者とコミュニケーションを取れるような自己肯定感のある人には想像できない話なのです。
自己満足かもしれませんが、「だったら私が描かなきゃ誰がやる」と思いました。
「開き直る」という強引な結論に至りましたが、同じように悩んでいる人の役に立てば幸いです。