(12) 「働け」という罵声には耳を貸さなくていい

アイキャッチ:通過する列車とヘッドホンをする男性

「働け」という罵声には何の意味もないと思う。

なぜかと言えば、動機が不純で、目的も果たせないからだ。

「働け」という罵声は、誰が、誰に対して言うものだろうか。
「働くことが当たり前だと思っている人間」が、無職やニートのような「働いていない人間」に対して言うものだ。

次に、目的は何だろうか。
「働いていない人間が働く(就職する)」ことだ。

じゃあ、「働け」という罵声で目的は果たせただろうか?
いいや、果たせていない。

この記事のタイトルだけを読んだなら、一見反感を買うかもしれない。
だけれど、気づいたことを言わずにはいられないから書くことにした。

自己中心的な衝動

何に気づいたかと言えば、「働け」という罵声は、自己中心的な衝動だと言えるからだ。

「働け」と言う人は怒(いか)っている。
怒っているストレスを発散するために、「”社会的に当たり前といわれていること”ができない弱者」を攻撃しているだけだ。

動機はいくつかあるだろうと汲み取れる。

  • 大人は働くのが当たり前だから
  • 働かないと、社会がまわらなくなるから
  • 自分は苦労しているのに、ラクをしている奴が許せないから

世の中や社会のことを考えている形跡はある。
人手不足が叫ばれるなか、労働人口の減少を危惧するのは自然な反応だ。
この点でいえば、自己中心的ではないと反論する余地はある。

「お前のことを思って叱っている」
典型的な脳筋体育教師が口にするような言葉だ。

困っている人には罵声より必要なものがある

働かないと決めた人間の気持ちは知らないが、私は「働きたいけど働けない」部類の人間だった。

「働きたいけど働けない」悩みを理解できない人間は多い。
私にだって就きたい職業はあったし、働くことが当たり前だと思っていた。

だけれど、自身がないとか、コミュニケーションが苦手だとか、「迷惑をかけるくらいなら、初めからやらない方がいい」とか、マジメさ故に自分から一歩も二歩も引いた。

どうすれば”普通”になれるのか、何が足りないのか、何年も悩んだ。
歪んで育った自分(アダルトチルドレン)に価値観の摩擦(うつ)も重なり、 新卒の年齢も通り過ぎて、社会のレールから完全に外れた。
「働けていない自分には価値がない」と自殺以外考えられない時期もあった。

「働け」と”常識”や”普通”という価値観を持ち出されても、私には毒でしかなかった。

結局、そんな状況から自身を動かすことができたのは「未熟な自分を受け入れて、行動することを決断した」からだ。
心の回復と自立の足並みが揃った今だから言える。
「働け」という一方的な罵声は、何も解決しない。

2019年にはひきこもりが100万人(中高年は61万人)というデータが出ている。
中には私と同じように、社会(職場)に馴染めなかったり、自分から身を引いて社会と疎遠になった人もいるだろう。

ここでもう一度、「働けという罵声には意味がない」という話に戻る。

締めくくり

「働け」という罵声に意味がないと思う理由は、やはり自己中心的で、衝動的なものだからだ。

働けない=社会の”当たり前”ができない人に必要なのは、罵声ではない。
「なぜ働けないのか」。
「どうすれば働けるようになるのか」。
罵(ののし)る人間が本当に社会のことを考えているのなら、なぜ「働けるようになるアプローチ」を議論しないのか。
(このブログは、精神疾患を経験した私が考えたことや知っていることを共有するために始めたものだ。)

仮に社会のことを思っていたとしても、他力本願。
あるいは、忙しい・苦労していることを言い訳にするだろう。
結局、問題を抱えている人に丸投げしている。
罵声の正当性は失われた。

自らの欠点の自覚もなく、「たまたま社会に適合できた運のいい人間」には、働けずに悩む人の気持ちは分からない。
罵るだけでは、先に数字を出したひきこもりの社会問題を解決できない。
解決できていない現状がその証拠だ。

罵るという過程が間違っているだけでなく、目的も果たせていない。
だから私は、「働け」という罵声には意味がないと結論づける。

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